御座を語る人たちシリーズ(鈴木敏雄)


越賀に寓し、三重軒主人と自ら称す。
昭和27年、御座に残る遺物や諸文献を調査考証し、
『御座村考古誌考嶋』を著す。
同書は後の人によって「御座郷土地誌」に集録される。
    




1.人骨数体を出した白濱貝塚

一 位置及び地勢
 白浜貝塚は志摩町御座村にある。御座村は崎島半島の先端にある小さい一村である。東は金比羅山合比を境として越賀村に接しているが、南方、西方、北方は大洋に面している。とくに北方は少許の海を隔てて同郡浜島町を手に取るが如くに見える。
 本村の大洋に突出した尖端は黒森と称して険崖をなしているが、之につづいて山地があり、標高九〇米を示している、御座村の里邑は村の東北なる英虞湾湾側にあり、百数十戸の小村であるが、平坦地の狭小である為めに、民家は一般に狭隘密集している。又その両方にも古墳の址などのある平坦地があって、現時にあっては田畑の耕地に乏しぐないが、冬季風波の激しく吹きつけて民居には宜しくなく、何時の頃にか今の地寄集ってしまったのである。
 この黒森と今の居民地との間には広い砂浜地があり、白浜と名ずける。嘗ては砂浜広く連って、水泳地としで好適の地であったが、昭和二十八年九月二十五日の台風第十二号の猛威によって、この白浜の景勝地も殆どその意味をなくしてしまった。
 全村は概ね丘陵地で占められ、平坦地は今の民居地と、前に述べた南方の耕地とてあるが、人口の増加に従って丘陵地の高い所にも今は耕地を見るようになった。その丘陵地は所謂中生層に属する硬砂岩、粘板板の互層であるが、成生が古くて地盤はさして堅くなく、耕地となすには適しているようである。
 古代遺跡はこの白浜の地ばかりではなく、先にいった南方の砲台場所付近一帯、並に現今の民居の地方、更にその東方、字「イカノ浦」地方の越賀村に隣接の地方にまで及んでいる。この「イカノ浦」の遺跡は、越賀の字馬の背遺跡、並びに字大差地山遺跡に連続している。

 二 遺跡及び遺物
 白浜は前に略説した如くに、御座の民居地他の西南方一帯の砂丘地を西側に降ったところから始まり、西南に向って弧状に白砂の浜を六町に亘つて形成していたのであるが、昭和二十八年九月の台風によって、南岸の砂丘は殆んど全部海中に浚われてなくなり、洛ヤに浅われてなくなり、又その西南限にあっては当時やや低かったが、南方奥深くまで砂丘が波に取りさられてしまったものである。
 この貝塚は私が昭和二十六年十二月に、黒森の岬を調査したとき、帰途この浜に沿うて歩いたとき偶然に貝層を見つけて稍調査したところ、人骨、獣骨、弥生式土器、石器などの少量を得、いよいよ貝塚であることを確認して「白浜貝塚」と命名したものである。蓋し土地の名に因んだものである。
貝層は、その主層は白浜の略中央部の南岸で、汀線上約八尺の上にあり、その下部には砂土まじりの貝層が約三尺あり、その上部に又約三尺の貝層の希薄な層があり、その上部に貝殻の多い層が約二尺及至三尺ある。幅は東西四十数間に亘っている。又この貝たんさんかるしゅーむを層のある附近にはこの沖積砂層であって凝固性のないものであるに係らず、恰も三紀の砂浜の如くに堅い層状のもの柱状のものがあり、それらは破壊せられて海岸に散乱し、又汀附近には砂丘線に沿うて数町の間に東西に長く見えている。この凝固した砂層は云うまでもなく、炭酸カルシュームを溶かした雨水が貝殻に作用して地下に浸透し、更に新しくカルシュームを生じてそれが砂上の間に凝固作用を起したものである。然るにこの凝固した砂土が数町につづいていることは、之と逆に考察すれば、貝層が長さ数町に続いていたことを証明するものであり、引いて今の海面の方にも広く続いていたことを想像せしめるのである。かくの如く見るときには、初め成生せられていた頃には広さは数町歩に亘っていたであろうと思われる。
 自然遺物の貝殻
 貝塚は古代人の芥捨場であり、食用の残りの貝殻や、食物の残物、日用器具の不用になったものなどを捨てた所であるが、有機質のものは年とともに腐食し、今日残っているものはその腐食を免れたもののみである。貝塚はそのうちの普通に主要物になっている。今その種類を検するに、
  二枚貝類
1)はまぐり  2)まがき  3)いたぼがき  4)ばかがひ  5)いたやがひ 
6)ざるがひ  7)あさり  8)おきしじみ  9)いがひ  10)ひあふぎ 
11)わしのは 12)ちりぼたん 13)たまきがひ 14)きくすずめ 15)しじみ
 巻貝類
1)ほらがひ  2)あはび  3)あかにし  4)ながにし  5)さざえ
6)とこぶし  7)みみがひ 8)いとかけぼら9)まつばがひ 10)つたのは
11)おほへびがひ12)べっこうがさ 13)すずめがれにのいちぶひ 14)くぼがひ15)ばていら
16)いしだたみ 17)いしがひ 18)はなびらたから19)こもんだから 20)あまおぶね
21)ほねがひ
以上の三十六種になるが、尚積算すればこのほかにも数種はあると思われる。内湾めいた砂浜をひかえ、大洋の海岸からも得られるので、貝の種類はさすがに多い。
  石器
 石器の出土は数量も少なく、且精巧なものはまだ見あたらない。すなわち粗製のものが概ねである。硬砂岩の円礫の一端、両端乃至は周囲に打雍痕をつけているものが数個、叩打用に使ったと思われる自然石の破片、魚鱗を剥ぐに用いられた、「鱗向き」など数個であるが、中に一個半磨製石斧の残片が一個ある。岩質は斑粉岩と見られる。友人佐々木武門君は珍らしく黒曜石の石鏃一個石錘一個を得ている。
 土  器
 土器片は決して少なくはない。而し土器は貝殼のくはみられないかに雨の為めに勿く変化を来さないのでよぐ原形を保っている。下層部にあっては弥生式の中期と見られる片で、石器斧が混在する。しかし最上層(又これは右に述べた最上層ではなくて、それよりも更に上の層がある筈であるが、右に述べた地より遙かに西部にある別地にもある。)にうすい貝層が見え、そこからでる土器は土師器である。
このように見ると、この貝塚の創始は弥生式中期で今から凡一千七八百年前にもなるか。そして最上層に土師器を見るとすると、之も一千数百年前のことである。土師器の編年は目下明白でないのであるが、私としては奈良朝以後まで降るものもあると思っている。
 土器の完形は見られないが、大型の坩であったと思われるものの胴部や、大形の高杯形胸部が明らかに見られる。今それらの一部を左に図示することとする。
しかしこの外に土器片は相当数に出土していることを知っておいて頂きたい。
 私の発見した貝塚の層中からは出土しないが、その西方なる白浜の西限に近いところでは、上は繩文土器の少許が出土する。又貝層中から出土する弥生式土器や土師器片も相当量に出土し、後期須恵器の小形`や碗なども出土する。このように見ると私の発見した貝層のある所は極限的な一部であるかもしれない。
  人 骨
 人骨は貝層の下部極限より三十種ないし四十種のところから層状になって出土した。しかし暴風雨の為めに破砕せられて下方に落下したために、どの人骨がどのようにして存在したかは明かでない。加うるに私としてはその方面の知識に乏しく、頭蓋骨顔面骨、四肢骨、脊椎骨、尾てい骨、指骨等の区別がついただけであるが、老人の骨もあり幼年のものもあるので、越賀村の歯科医西岡氏に鑑定してもらったが、歯牙より見て十歳前後、三十歳前後、五十余歳のものの少なくも三躰が存在するとのことであった。弥生式の人骨は全国的に見て希少であるので、この種の専門家に詳細鑑定してもらえる人もがなと待っている次第である。
 その他の遺物
  獣骨角、魚骨
 獣では鹿の頭骨が二個、並に肢骨の小片が数個ある。頭骨には刀痕がついていて利器が考えられる。又角片が数個出ていて、その二個にも刀痕がある。
 この外に歯牙をつけた猪の顎骨片が数個あるが、大片と見られるものはない。
 鯨骨が西の限界あたりから出土している。之は大波の為めに地下から出たもので、又その状態から見ても近代のものではない。一尺より二尺位長のもの八片、肢骨と見られる。直径約一尺程の脊椎骨一個回り約三尺、長約四尺に達するもの一個がある。之等も鯨のどこの骨か私には明確でない。
  瑠璃原石
 淡紅褐色で僅かに縞が見られる。高一寸二分、幅一寸九分、厚一寸二分の不整形の片であるが、その角が著しくすれている。
 一志郡中川村では碧霊の大形原石が二個出土し、津市大字観音寺では玉髄原石が一個出土している。これらは原石のままで愛翫したが、玉類製作のために持っていたものが利用せない。人骨よりは後のものである。

三 考 説
 御座村の岬角に立ってこの白浜一帯を眺見すると、ありし日に数町歩に亘って白がいがいたる大貝塚が夢のようにまぼろしのように現われる。それも上は少なくとも縄紋期の末から、下は平安末から鎌倉期にかけて千年の間の夢である。
 
 御座村には前にも述べたように「イカノ浦」から越賀村の字「馬の背」にかけて多数の縄紋期弥生期の石器や土器が、見られ、南方の岩井岬より越賀の字「参宮浦」にかけては之も縄紋七器が沢山出土する。少数の一族であったと思われるが、この白浜にも早く人間の棲息が伺われる。
 貝塚は三重県下に少なくはない。しかし人骨を出土した貝塚には桑名市蛎塚貝塚、志摩では越賀の阿津里貝塚、それにこの白浜貝塚だけである。蛎塚からは完結した人骨一体が出土したが、私の調査した日には、予め私のゆくことを里人がきき伝えて他へ改葬してしまった。私は別の人体の頭骨を獲たのみであった。阿津里貝塚からは肢骨数個を得たのみである。白浜貝塚からは林檎箱にいっばいであった。何とかしてその詳細が究明してほしいものである。
 蛎塚からは私は「さざえ」の貝殻をとり、一志郡鶉の貝塚からは「いたや貝」の貝殻をとり、津市大門町の貝塚からは鮑の貝殻をとって古代人の海に勇悍であったことを知った。阿津里貝塚からは魚骨は勿論であるが、海亀の遺骼をとって珍としたが、この白浜からは鯨骨の数個を得て一層古代人の活動を偲ぶことができた。しかし鯨は古い時代に里人の手で捕える方法があったかどうか。下って平安鎌倉の頃にもあったかどうか。或は病獣を生捕ったのか。死獣の漂着したものか、或はそれより以後の捕鯨であろうか。紀州ではすでに室町期において巧妙なる捕鯨法があったのである。
 終りにこれらの資料の探査と運搬に便してくれた越賀中学生山川万夫、山口勲、山川護、森田久寿、竹内佐寿、西井健、中村清、その他の諸君に感謝の意を表する。
               (昭和二十九年七月十日了)

 本稿々了後、友人岩野見司君をもって東京大学教授、医学博士鈴木尚氏より人骨を借受けたき申入れがあった。同士は人骨鑑定の権威者である。兼て切実な希望もあり、喜んで御用達することとなり、既に荷造りして発送し、同氏よりも懇切な御礼状があった。


2.附考(『御座村旧記』、『御座嶋由来記』についてのコメント)

○ 御座村旧記一巻、御座島由来記、このに書は古くからこの地に写本として伝へられているが、その内容から見て、恐らくこの地の僧職の人が、その当時に流布されていた伝説を募集記録したものと思われる。
 しかし伝説は飽くまでも伝説であって史実ではない。それ故に此等の書を読む人は胸中にその心して居なければならぬ。勿論史実と思われるものも混じているようである。
○ 旧記に云ふ所の神宮皇后の朝鮮を御征伐をなされたとき、神宮に御親拝なさったことは正史には見えない。又天皇御躬ら神宮に御親拝になったことは、古代にその例はない。又今の御座村に行啓になったことも勿論考へられない。
○ 右のような次第であるから、従って同皇后並に武内宿祢がこの地に来られたことは考へられない。
○由来記の方にいふ彦火火出見の尊、豊玉姫命、それにHG草葺不合尊がこの地に御滞留になったり又は御生誕になったりした事は、古事記や日本書紀に精細な記事がある。これらを棄てゝこの書の記事が正しいといふ訳には、今俄に出来ないように思う。、
○HG草葺不合尊が後の神武天皇であらせられるわけであるが、その御東征のことは、之も古事記日本書紀に精細な記事があるが、之も天皇がこの地にまで臨?行になったとは考へられない。私の考えでは、北牟婁郡錦に御上陸になり、飯南郡波瀬村から高見峠を越えて大和に御出でになったものであろう。
○倭姫命が皇大神宮の朝夕の御饌に奉る魚介をお求めになったとき、或はこの地にもお出でになったであろうことは考えられる。しかしこの地が皇大神迂幸の順路であったといふことは到底考えられない。それは皇大神宮儀式帳や倭姫命世記などによって明白である。
○今の見崎山、それは岬の神を祀った崎、即御前山の意味であろうと考えられるが、それを万葉の衣手山に充てようとするのは、之も偏狭な郷土愛の現はれと見るべきである。何らの根拠もないことである。
○持統天皇の伊勢行事(太古は志摩も伊勢の一部分であったと考えられる。)のことは書紀の持統天皇紀に明確に記されている。それによれば、恐らくは、今の甲賀村にあったであろう志摩国府庁においでになり、それから答志郷にお渡りになり、更に三河國の伊良湖へお渡りになって御帰京になっている。御座村に御滞留になる理由は更にないと考えられる。
○字細田にある人穴を以て、古代の住家としている。人穴といふのもその意から起った名称であろう。しかし今日の学問から云へば、それは全くの誤りで、この村の古代豪族の墳墓であることは確実である。
○源頼朝が少年時代にこの地に滞留していたことが源平盛衰記に記載されているが、同書にそんな記事は見当たらない。

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